会津の史跡

会津の史跡 飯盛山 白虎隊

会津の歴史に名高いスポットや史跡をご紹介します。
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【会津の史跡】概説

会津といえば「白虎隊」が有名です。幕末の慶応4年(1868年)、徳川三百年の歴史に終わりを告げる「戌辰戦争」が勃発。会津藩では旧幕府軍の援軍として、年齢別に編成された4つの隊を結成しました。その中で、16~17歳の少年達を集めた約340人の部隊、それが白虎隊です。
慶応4年8月23日、猪苗代湖付近の「戸ノ口原」での戦いに敗れた白虎隊の20名は飯盛山まで逃れましたが、戦火に包まれた「鶴ヶ城」を見た彼らは自刃。藩のために勇敢に戦い、その短い生涯を終えた少年部隊の話はその後、悲話として広く伝えられました。市内には、白虎隊が藩の命を受け、出陣したとされる「旧滝沢本陣」や、自刃した隊士の墓が建つ「飯盛山」などゆかりの地が多数存在します。
さらに、会津は「新撰組」とも縁の深い地として知られています。京都の市中取締りのために結成された浪士集団の新撰組は、後に旧幕府軍として戌辰戦争に参戦。会津での戦闘では、三番隊隊長の斎藤一が、負傷した土方歳三の替わりに新撰組を率いて新政府軍と戦いました。
その後、斎藤一は土方歳三と別れ会津に残り、その半生を送りました。没後は七日町駅近くの「阿弥陀寺」に埋葬され、今もなお観光客が訪れるスポットになっています。また、少し離れた「天寧寺」には新撰組局長であった近藤勇が埋葬されたといわれる墓も残っており、参拝者は後を絶ちません。
会津の史跡や旧跡をたどりながら、歴史や文化を体感してみてはいかがでしょう。

会津武家屋敷

戊辰戦争で消失した武家屋敷のうち、家老西郷頼母邸を復元した観光スポット。復元された西郷頼母邸は約400坪の面積、35室におよぶ宏大な邸宅で昔をしのばせる。他にも旧中畑陣屋、茶室麟閣を再現した茶室領南庵や、和歌山から移された佐々木只三郎の墓などがある。

佐々木只三郎の墓

新選組結成や坂本龍馬暗殺に係わった佐々木只三郎は鳥羽伏見の戦いで負傷、和歌山の紀三井寺で没した。墓は紀三井寺にあったが近年ここ会津武家屋敷に移された。

赤沼稲荷神社

祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。『新編会津風土記』によると、神体は木像丈八寸八分、きわめて古く定かでないが佐原義連(葦名氏の祖)随身の像と伝えている。
義連がこの地に封ぜられたとき(1189)、赤沼内膳(あかぬまないぜん)というものがあとを追ってきた。義連は喜んでこの像を与え、社頭を建立して内膳を神職につかせ多くの神田を寄付したのが起源とされている。このときから赤沼稲荷と称し里人の尊崇を集めた。その後、伊達氏の兵乱により荒廃したが、蒲生氏郷が再興したという。

葦名三代の墓

会津若松市門田町花見ヶ丘にある。葦名16代盛氏を中心に、西に17代盛興、東に18代盛隆と三基並んだ五輪塔で、空風火水地の五文字が刻されている。
北側にもう一つの墓(氏名未詳)があるが、この辺は「花見ヶ丘森廟」と呼ばれ、葦名氏11代~19代の墓地だったと思われる。またこの南の小田山中には3代~9代の墓があって「寿山廟」と呼ばれていたが、現在はよく判らない。

阿弥陀寺

慶長8年(1603)開創。『新編会津風土記』によると、当寺は「下野国真壁郡大沢円通寺の末山浄土宗」とあり、開基の僧良然が病の治療のため会津に来た際、知己だった蒲生秀行の家臣倉垣氏が大伽藍を建立し、堂宇を建造した。その後火災にあい焼失。戊辰戦争後、明治3年本丸にあった鶴ヶ城御三階をここにうつし、仮本堂として使用した。浄土宗の開宗800年記念にあたり寺院を改築、現在の堂宇が完成した。
この寺には、戊辰戦争戦死者が埋葬されている。また斉藤一の墓、萱野権兵衛遥拝碑もある。

飯盛山

白虎隊の墓が山中にある。昔は正栄寺や宇賀神社、さざえ堂などのある景勝地として知られていた。明治17年に自刃19士の墓が建ち、その後、戦死31士の墓を追加、また自刃の場も整備された。昭和3年ローマから記念碑が送られ、昭和10年には駐日ドイツ大使館付武官によって石碑が建てられた。また松平容保の歌碑を始め、数多くの石碑が建てられている。昭和32年には蘇生者飯沼貞吉の墓も設けられ、山下には白虎隊記念館も建設された。今も白虎隊の墓前は香煙の絶えることはない。

白虎隊士の墓

飯盛山の山中にある。明治元年(1868)8月23日、戸ノ口堰から飯盛山北麓までのトンネル(長さ210メートル)を通って引揚げてきた白虎隊士20名は、飯盛山から炎上した城下を見て鶴ヶ城落城と判断、全員がその場で自決した(飯沼貞吉のみ蘇生)。
戊辰戦争後、会津藩は朝敵とされ白虎隊士の遺骸も埋葬を許可されず、密かに妙国寺に仮埋葬された。明治2年にようやく飯盛山の中腹に合葬がゆるされ、その後自刃19士の墓が建ち、墓所も拡張され大正15年ごろに現在の形になった。
かたわらに松平容保の「幾人の涙は石にそそぐともその名は世に朽ちじとぞ思ふ」の歌碑がある。

恵倫寺

金剛山と号す。天正18年(1590)蒲生氏郷が父賢秀のために建立、尊敬する結城郡(茨城県)安穏寺の高僧を迎えて開山した。当時は郭内の米代にあったが、慶長17年(1612)現在の小田山麓に移転された。会津領の僧録寺として天寧寺、善龍寺とともに各寺院を管轄した。戊辰戦争の戦火にあい山門、鐘楼など七堂伽藍が消失。現在は本堂や山門が再建されている。

蒲生氏郷父の菩提寺

柴四朗の墓

恵倫寺の柴家墓地の左手高台にある。妻柴菊子の墓とならんで建てられている。

柴家一族の墓

柴四朗、柴五郎が生まれた柴家の墓地。明治元年、戊辰戦争で新政府軍が会津城下に迫った際、柴家の人々は自害して果てた。その死を悼んで墓石を建てたものを、昭和9年に柴五郎が原形にならって再建した。50基ほどの墓石の中に柴五郎の墓もある。柴四朗夫妻の墓も左手高台に建てられている。

大山捨松誕生の地

現在の会津酒造歴史館駐車場東側より、会津酒造組合にかけての一体が旧会津藩家老職山川家の屋敷跡であった。斗南藩大参事山川浩、東京帝大総長山川健次郎、鹿鳴館の貴婦人大山捨松が生まれた場所。

おけいの墓

昭和32年に背炙山黄金ヶ岡に建てられた、明治初期のアメリカ移民、おけいの墓。大正4年にカリフォルニア州ゴールドヒルで発見されたおけいの墓と同じ墓石になっている。おけいは会津人を中心としたアメリカ入植地若松コロニーに、団長ヘンリー・スネルの子守娘として入植。コロニー崩壊後地元のピアンカプ家に引き取られ、まもなく熱病で死亡。墓が建てられたという。

小田山

鶴ヶ城の南東2kmほどのところにある小高い山(372m)で通称小田山公園と呼ばれている。山麓には葦名家ゆかりの名刹古跡があり、山頂には会津藩名家老田中玄宰の墓がある。鶴ヶ城を見下ろせるこの地の利は、戊辰の役では新政府軍に利用され鶴ヶ城への砲撃場所となった。また、東北側の山腹には、若松第65聯隊・第29聯隊の実弾射撃があった。現在は公園として整備され、四季を通じて散策を楽しむ人の数が絶えない。

小田山城址

中世における初期の葦名氏の居館および詰の城。資料や地名などから、葦名氏が会津に入部した頃、宝積寺の辺りに居館をもちその東南方の現在の小田山山頂を中心にした詰の城としての山城を合わせて小田山城と総称していたものと思われる。山城の規模は明確でない。

丹羽能教の墓

明和3年~天保14年(1766~1843)
会津藩家老。軍事奉行として文化5年北辺警備に就く。同7年江戸湾警備の任に辺り諸務を総督する。私費で荒地をひらき藩主保科正之の祭田に加えたが、藩公からの恩賞を断り手書の銘刀だけを拝受したという。墓は小田山公園の頂上近くにある。

田中玄宰の墓

三代の藩主に仕えた名宰相、会津藩名家老田中玄宰の墓。「わが骨は鶴ヶ城と日新館の見えるところに埋めよ」との遺言により、墓はそれらの見渡せる小田山の山頂にある。

御薬園

会津松平氏の庭園。室町時代の領主葦名盛久が霊泉の湧き出たこの地を別荘にしたことに始まるという。松平氏2代保科正経が薬草園をここに設け、各種の薬草を栽培させたことから「御薬園」の名が起こった。3代松平正容の時代に近江の目黒浄定を招き、遠州流によって本格的な借景園を築庭させた。園内には泉石・灯籠・樹木が巧みに配してある。中央には心字の池があり、島には数寄屋造りの楽寿亭が建つ。
秩父宮勢津子妃殿下顕彰碑、与謝野晶子及び篠田悌二郎の碑もある。

會陽医院跡

野口英世が3歳の時火傷をおった左手を手術した會陽医院跡で、明治17年に建築。英世が書生となり医学の勉強をした場所でもある。現在は1階が喫茶店、2階が野口英世青春館となっている。

萱野権兵衛屋敷跡

戊辰戦争の戦争責任を背負い切腹した萱野権兵衛の屋敷跡。現在は昔の面影はなく埋蔵文化物管理センターなどが建つ。幼い郡長正もここで育った。

河原町口郭門跡

郭門は外堀外部から城郭内に入る入り口で、16ヶ所あった。その中の一つ。現在は民家の庭に外堀のなごりが残る他は昔の面影は全くない。この郭門にまつわる出来事は、加藤明成に反逆した堀主水反逆事件(この郭門より逃走)、群上藩凌霜隊の会津救済(この郭門より入城)がある。

稽古堂跡

寛文4年(1664)会津藩主保科正之のとき、横田俊益が創立。庶民のための学問所としては日本最古のものといわれる。堂主は岡田如黙。現在、威徳院の正面左側に「稽古堂跡」の石碑があるが、これは昭和23年ごろに隣地へあったのを移したもので、稽古堂はこのあたりにあったと考えられる。

建福寺

信州高遠藩主保科家の菩提寺である。保科正之が会津に転封となった時会津に移転してきた「お供寺」の一つ。
寛 永20年(1643)正之に従った鉄舟和尚により開山となる。延宝8年(1680)に現在の地に堂塔伽藍を建立。当時の住職が退山しため、貞享2年 (1685)3代藩主正容公は、江戸芝東禅寺の黙水和尚を迎えた。士族寺として隆盛をきわめたが、戊辰の戦火により、堂塔伽藍は焼失し明治3年再建された といわれる。

お供寺(保科正之)

河井継之助の墓

長岡藩家老で奥羽越列藩同盟総督、河井継之助は、明治元年(1868)長岡城落城の際負傷した傷が悪化して、只見町塩沢で亡くなった。遺体は荼毘にふされて鶴ヶ城下の建福寺に運ばれた(長岡藩藩主牧野公が、当時滞在していた由縁からという)。「故長岡藩総督河井継之助君埋骨遺跡」の碑が建てられている。只見町塩沢の医王寺にも村人が細骨を葬った墓がある。

甲賀町通り

鶴ヶ城の大手門である甲賀町口郭門からまっすぐに伸びる。戊辰戦争終結時には開城調印式が行われたところ。白裃、無刀の松平容保が薩将中村半次郎の前で降伏の署名をした。

降伏式

西郷邸跡

鶴ヶ城正面の追手町にある。
西郷家は藩祖以来の重臣で、戊辰戦争の際の当主は国家老1700石の西郷頼母近悳(ちかのり)であった。 明治元年(1868)8月22日情勢が切迫、頼母は恭順を主張して謹慎を命じられていたが急遽登城、翌23日には新政府軍が城下に殺到し、頼母の母・妻・妹・娘の9人と縁者らの家族計21人がここで自決した。 妻千重子の辞世の歌は「奈与竹之碑」となり、墓とともに善龍寺に建っている。

白露邸

江戸時代後半鶴ヶ城北出丸の入口、追手甲賀町通りと本一之丁が交叉する十字路の北西角が内藤介右衛門邸であったが、その庭が白露庭である。明治以後は裁判所の前庭となっているが、昔の家老邸の名庭だった面影をとどめている。

神指城跡

神指城は上杉景勝が大川の水を利用して徳川家康の会津征伐に備えて、慶長5年より築城を始めたもの。12万人の人夫が導入されたが、その矢先家康が会津征伐に向い、その上関ヶ原の戦いとなって、工事は途中で中止となった。現在は二の丸の四隅と本丸跡をわずかに残すのみである。

興徳寺

瑞雲山興徳寺と号す。弘安10年(1287)葦名秦盛が鎌倉より大円禅師を招き開山したと伝えられる。臨済宗妙心寺派の寺で、葦名氏を滅ぼした伊達政宗が会津支配の仮の政庁をおき、また秀吉が奥羽仕置の御座所としたほどの大寺院であった。戊辰の兵火にかかり、現伽藍は昔日の面影はない。蒲生氏郷により城下町が整備され寺院が郭外に移された際も、その由緒と格式により唯一郭内に留まる事を許された。氏郷の遺髪をまつった五輪塔の墓、元大阪市長池上四郎ほかが建立した池上家累代の墓などがある。

池上家の墓

会津藩士池上家先祖の墓。秋篠宮紀子さまの曽祖父にあたる元大阪市長池上四郎ほかにより建立された。興徳寺墓地にある。

蒲生氏郷の墓

会津若松市神明通りの東裏、興徳寺の本堂東側にある。瑞雲山興徳寺は臨済宗妙心寺派の寺で、秀吉が奥羽仕置のため会津へきたとき三泊したほどの大寺院であった。墓は空風火水地の五文字を刻した五輪塔で、京都大徳寺の本墓から分骨したものと伝えられる。墓前には、「限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」の辞世の歌碑がある。会津史談会が昭和28年に氏郷公360年祭を記念して建てたものである。

極楽寺

明応4年(1495)4月会津黒川の里金堀地内に、時の領主葦名盛高の第4子が得度、釈浄顕として一宇を造営した事に始まる。のち永禄6年(1563)盛高の遺命により現在地(宝町)に本堂を建立。寺宝としては佐原義連坐像、葦名盛高公坐像などがある。

栄町教会

会津の中心的な教会。明治27年9月に教会が設立し、明治44年に現在の会堂が建てられた。野口清作(野口英世)もここで洗礼を受けている。

清水屋旅館跡

清水屋旅館は現在の七日町通り、大東銀行会津支店の場所にあった。幕末吉田松陰が1852年の東北紀行の途中に、また戊辰戦争で来軍した新選組副長土方歳三が宿泊した場所。明治には自由民権運動家の宇田成一が官憲に襲われる、清水屋事件が起きている。

スネル邸跡

戊辰戦争時、会津藩軍事顧問であったプロシア人ヘンリー・スネルの屋敷跡。彼は当時ちょんまげを結い、平松武兵衛と名乗っていた。

諏方神社

祭神建御名方命(たけみなかたのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)。永仁元年(1293)黒川城主葦名盛宗が新宮助成を河沼郡笈川(現湯川村)で破ったとき、軍神諏訪大明神の神徳に感謝して社殿を造営し、社領100石を寄進した。以後領主の保護を受け、明治に至る。戊辰戦争の戦火に遭い焼失した。明治2年再建。

善龍寺

同寺はもと総州(千葉県)にあったが、信州(長野県)高遠に移ったため保科正之の山形~会津移封とともに、城南花畑に建立された。その後現在地に移ったが、寺は保科家の元祖筑前守正則の霊を守る保科家の菩提所として発展した。11世中興大雄得明禅師のとき七堂伽藍を建立、会津曹洞宗の僧録司となり権勢を 誇った。
戊辰戦争で伽藍を焼失、昭和52年に本堂並びに鐘楼を建立、現在に至っている。
寺宝に、本尊釈迦牟尼仏、大般若経600巻、「寒山拾得」(軸物)などがある。

なよたけの碑

善龍寺境内にある。昭和3年建立された。碑名は自決した西郷頼母の妻千重子の辞世の歌「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそ聞け」からとったもので、碑陰には戊辰戦争で散った233名の会津藩の婦人名が刻まれている。

西郷一族の墓

西郷頼母ら西郷一族の墓。頼母の墓をはじめ、戊辰戦争の明治元年(1868)新政府軍が城下に殺到した際、西郷邸で自決した西郷一族21人の墓(頼母の母・妻・妹・娘の9人と縁者らの家族)などがある。

お供寺(保科正之)

宗英寺

瑞雲山(ずいうんざん)と号す。葦名家の御影堂(みえいどう)として9代盛政のとき建立された。天文年間(1532~1554)火災にあい全焼したが、16代盛氏によって再建され、その死後は盛氏の木像が安置された。
伊達政宗の会津侵攻で焼かれ、その後元和6年(1620)蒲生忠郷の時代、葦名16・17・18代の菩提寺として再興された。戊辰の兵火にあい焼失し、昭和35年再建された。国重要文化財の木像葦名盛氏坐像がある。

大龍寺

宝雲山と号す。保科正之が会津に転封となった時会津に移転してきた「お供寺」の一つ。当時は慶山寺という無住の寺で、そこに山形より正之に従って会津入りし た機外禅師が入って開山した。京都高尾・嵐山より移植した「大龍寺のかえで」や、目黒浄定作の庭園、小笠原流の祖・小笠原長時の墓などがある。

小笠原長時の墓

小笠原家は信州の弓馬および礼式の名家。武田信玄に破れた小笠原長時は、越後~会津に逃れ芦名盛氏に身を寄せていたが逆臣に殺害された。

お供寺(保科正之)

滝沢本陣

旧滝沢本陣横山家住宅主屋座敷。白河街道の滝沢口(滝沢峠の登り口)にある。横山家は16代を数える旧家で、主屋の部分は郷頭の住居として古い農民住居の形を残している。藩から本陣の指定をうけ、座敷の部分が東側に追加建築された。休息が目的の本陣で、参勤交代や領内巡視、土津神社祭礼の時などに使用された。戊辰戦争のときは会津藩の本陣となり、藩主松平容保がここで白虎隊に戸ノ口原への出陣を命じた。後には西軍の屯所となったので、柱には当時の刀傷や弾痕が生々しい。

鶴ヶ城

別称若松城
戦国期には当地に葦名氏の「黒川城」があり、蒲生氏郷が文禄元年(1592)に甲州流の縄張を用いて郭を築き、7層の天守閣、櫓をたて、馬出を作ったと伝えられる。また地名を若松と改め、城を鶴ヶ城と命名した。
慶長の大地震(1611)で傾き長い間放置されていたが、加藤明成の時代に鶴ヶ城の大改修に着手。大手門を北側、天守閣を5層に改め、石垣を改修・新築、出丸を拡張、空堀に水をたたえるなど鶴ヶ城を現在のような形態とした。
天守閣は戊辰の役で砲撃され、明治7年に取り壊されたが、昭和40年に内部を郷土博物館展示場として再建された。

遠藤敬止頌徳碑

戌辰戦争の敗戦により新政府に没収された鶴ヶ城は、明治7年に取り壊され、明治23年には城跡が競売により払い下げられることになった。当時仙台七十七銀行頭取で旧会津藩士遠藤敬止翁は、私財を投じて城跡を落札・購入して松平家に献上した。 城跡は明治36年に若松市と松平家の協約で市の公園になり、大正15年に若松市の所有となった。頌徳碑は昭和45年明治百年にあたって建立された。

荒城の月碑

鶴ヶ城本丸の東南隅にある。
明治31年に28歳の土井晩翠は東京音楽学校の求めに応じて「荒城の月」を作曲した。その際、第二高等学校在学中に訪ねた会津若松城址を詩材とし、仙台青葉城でも稿を練ったという。
この詩碑は昭和22年晩翠夫妻出席の元に除幕され、作詞の根拠が地元会津若松でも知られるようになった。
なお、「荒城の月碑」は、鶴ヶ城、青葉城の他、作曲者滝廉太郎の故郷大分県竹田城址の三ヶ所にある。

麟閣

千利休の子、少庵が会津藩主蒲生氏郷にかくまわれていたときに城内に建てた由緒ある茶室。戊辰戦争で会津藩が敗れ、明治始めに鶴ヶ城がとりこわされる時に石州流家元の薬種問屋森川善兵衛が払い下げを受け自宅の庭に移築し保存されてきた。平成2年に本丸内の旧跡地に再移築された。

鶴ヶ城三の丸

加藤嘉明の時代までは、東の三の丸側が鶴ヶ城の正面(大手口)であった。出丸の中では最大の面積がある。明治41年に若松に聯隊が設置されると三の丸は練兵場となり、堀や土塁などが整地され消滅。戦後は市営プール、陸上競技場、県立博物館などが建てられ昔の面影はない。わずかに県立博物館建設のおり発掘された堀の輪郭が、建物裏の芝生にさつきの花列によって表されている。また文学碑や歌碑も多い。

秋月悌次郎詩碑

鶴ヶ城三の丸跡、県立博物館のそばにある。秋月胤永(通称悌次郎)が戊辰戦争後の明治元年に、会津藩の減刑嘆願の使者となった際に読んだ「北越潜行の詩」が刻まれている。

佐川官兵衛顕彰碑

平成13年に建立。西南戦争で佐川官兵衛が戦死した地である、熊本県南阿蘇村よりゆかりの大石を譲り受けて建立された。

西郷四郎碑

陸上競技場裏、文化センター前に建っている顕彰碑。昭和40年に鶴ヶ城三の丸跡に会津柔道界会により建立。ジュラルミン製の珍しい碑。昭和59年県立博物館の建設に伴ない、現在地に移された。

天寧寺

応永28年(1422)、会津にきた傑堂禅師が11代芦名盛信の建立により創立した寺。かつては会津曹洞宗の僧録司で、末寺33カ寺、12の寺院をかぞえた。 9世仁庵のころ、芦名盛氏が永楽100貫文を寄付、雲水1000名をかぞえたという。 のちに伊達氏の侵攻にあって焼けたため、芦名氏の菩提寺としての面影は、本堂の礎石にわずかに残るのみである。 寺宝に達磨絵図、寒山拾得絵図などがある。

葦名氏菩提寺

近藤勇の墓

新選組副隊長土方歳三が建立したという。京都三条河原にさらされた近藤勇の首が葬られているとも遺髪が葬られているともいわれる。「貫天院殿純忠誠義大居士」と立派な戒名は、松平容保の書。勇の墓は他に板橋駅東口駅前、愛知県岡崎市法蔵寺、東京都三鷹市竜源寺にもある。

萱野権兵衛の墓

萱野権兵衛は、戊辰戦争の戦争責任を背負い、明治元年東京広尾の保科家別邸において切腹した。東京港区興禅寺とここ天寧寺に墓がある。

郡長正の墓

会津武士の屈辱をはらそうと16歳の若さで切腹して果てた、郡長正が眠っている。

中野竹子殉節の碑

戊辰戦争で柳橋付近で奮戦し戦死した娘子軍隊長中野竹子の碑。 昭和13年に会津若松市神指町黒川の湯川端に建てられた。 出陣する際薙刀に巻き付けていたという辞世の句「武士(もののふ)の猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも」が刻まれている。

日新館跡

5代藩主松平容頌の寛政11年(1799)に造営開始、文化2年(1805)に落成した。 会津藩祖保科正之は極めて学問好きであり、2代正経の延宝2年(1674)郭内に学問所を開き「講所」と称した。天明8年(1788)時の家老田中玄宰(はるなか)は、藩政改革の一環として「講所」の拡張整備と、藩士の子弟の就学を義務づけた。同年、従前の「講所」を「東講所」とし、新たに米代に「西講所」を創設したが、やがてこれを拡大整備した「日新館」によって両所は統一された。「日新館」という名称は、『書経湯之盤銘』の「日日新而又日新」、また『大学』『易経』などによったものといわれる。

日新館天文台跡

日新館天文台跡は、基底12間余、台上方5間半、高さ3間半で、天文学習の観測場であった。日新館の施設で今に残る唯一の遺構である。天文学の授業でどれほど実測用に活用されたか不明だが、冬至の日には、暦学家や天文師範などが集まって、明年の雲気候や、晴雨考を編んで官に提出した。

吉田松陰(日新館訪問)

幼少から山鹿流兵学を学び、23歳の時、山鹿流兵学最高の免許を受ける。翌年東北諸藩を歴訪し、会津には往復二度立ち寄り、日新館には特に興味を示して見学した。

野口英世博士像

昭和33年、全会津に渡って募金を行い、鈴木仁亮作で建立された。郷土出身の偉人を常に仰ぎ見られる建立の地として、旧市民会館前(現 會津稽古堂)が選ばれた。現在は野口英世博士が青春時代を過ごした通り、「野口英世青春通り」に移築されている。

本光寺

来迎山と号す。天平12年(740)開基、開山は行基菩薩と伝えられる。市内門田町飯寺(にいでら)にある。康暦元年(1379)葦名直盛が鎌倉より入部したとき居城がまだなく当寺を宿にした。寺は直盛のために煮炊きをしたので、いつしか飯寺とも呼ばれるようになったという。境内にあった本堂が戊辰の戦火で消失し、昭和35年に再建された。墓地内に「長岡藩士殉節の碑」がある。

長岡藩士殉節の碑

戊辰戦争時、長岡城落城後、長岡藩藩士山本帯刀を隊長とする一隊は八十里峠の難関を越えて会津に入り奮戦した。しかし早朝の濃霧の中飯寺河原で新政府軍に包囲され、隊長以下44名が戦死した。明治23年村民が供養の碑を建てて霊を弔っが、その後昭和31年会津史談会が新たにこの殉節の碑を建てて供養した。

松平家院内御廟

歴代の会津藩主墓所。
藩祖保科正之の長男正頼が亡くなった明暦3年(1657)、正之の命によりこの院内山を開いたのが始めである。
左方の藩主の子供や夫人たちの墓の中に正頼の墓もある。さらに左手の山腹に松平家2代正経の墓(仏葬)、頂上には3代正容から9代容保の墓所が並んでいる(神葬)。なお初代保科正之の墓は猪苗代町見祢山にある。

妙国寺

宝光山と号す。顕本法華宗を開いた日什の誕生入滅の霊場として、日什門流の寺院全国500カ寺を擁し、日蓮宗の本山に列している。創立は応永元年(1394)。戊辰戦争のとき、会津藩主松平容保が降伏、容保父子が一カ月間入寺謹慎した寺である。また飯盛山で自刃した白虎隊士の遺体を最初に葬った所でもある。寺宝に日什上人直筆曼荼羅、釈迦涅槃像(刺しゅう)、田中正玄夫人使用什器などがある。

妙法寺

明徳2年(1391)創立。会津出身の名僧日什大正師を、城主葦名氏が寺を建てて迎えたのが始まりである。天正の乱(1589)で破壊されたが、蒲生氏郷より寺域を現地に賜わり、のち大寺院となった。宝永6年(1709)の火災後復興したものの、戊辰戦争で堂宇は全焼。明治44年本堂が再建され、大正初期に整備されて現在に至っている。中野竹子の父中野平内の墓がある。文化財として、書家中林悟竹の扁額がある。また入口石橋欄干は旧日新館のものである。

中野平内の墓

幕末の会津藩江戸詰勘定役中野平内の墓。娘子軍隊長、中野竹子の父である。

弥勒寺

陬波山龍華院と号す。会津真言四ヵ寺の一つ。応永3年(1425)に秀哉上人により開山された。芦名盛政の尊崇厚く、蒲生氏郷が外郭を築き、城市を分けた時現在地に移った。藩主松平正容の寄進により七堂伽藍が完成。その後数度の火災に遭い、昭和2年に現在の本堂が再建された。

広沢家先祖の墓

斗南藩の実力者で日本初に洋式牧場の生みの親、広沢安任ゆかりの先祖の墓。現在でも子孫の墓参は絶えない。

八角神社

大同2年(807)創立。至徳年間(1384~87)葦名直盛が会津の領主となり、その居城を鶴城と呼び、弊社を修築して「亀の宮」と称した。当時は宏大な社殿だったという。その後大永年間(1521~28)猪苗代の反乱のため兵火に罹災、慶長の大地震には石の鳥居が倒壊した。戊辰の役には社前の銅の大燈籠2基が戦争の犠牲となるなど、たびたびの災禍にあっている。しかし葦名以来歴代藩主により50石の社領をうけ、ことに松平正容より会津総鎮守の扁額を寄せられるなど、由緒ある神社である。

山鹿素行の碑

会津若松市山鹿町にある。素行の誕生地を記念した碑石は地元の自然石で「山鹿素行誕生地 大正15年春 元帥伯爵東郷平八郎書」と雄渾な文字が刻まれている。

憂国の間

2.26事件に唯一の民間人として加わり死刑となった渋川善助が、少年時代を過ごした部屋。会津若松市七日町の渋川問屋内に現在でも保存されており、生前の三島由紀夫が訪れ「憂国の間」と名付けたといわれる。

陸上競技場裏土塁跡

会津若松市内に残る鶴ヶ城の外堀土塁の遺構。戊辰戦争からの復興を目的に、明治41年に若松市に陸軍歩兵第65聯隊が誘致された。現在の県立博物館から陸上競技場までの一帯は聯隊の練兵場になり、その際この外堀土塁跡がそのまま利用された。 戦後、第7回国体を契機に作られた陸上競技場の観覧席に土手が利用され、今もその形を残している。

若松聯隊跡

明治40年かねてから市会が請願していた若松兵営設置が決議され、翌年より会津若松市栄町に新設された若松聯隊区兵営に歩兵第65聯隊が移駐した。大正14年からはかわって仙台の歩兵第29聯隊が若松へ駐屯し、以後市民の生活に深くかかわった。終戦後は廃止され兵営は引揚げ者の仮住宅となったが、現在敷地跡は市営住宅および若松第二中学校となっている。通称「赤門」と呼ばれる正門がわずかに現存するのみで面影をとどめるものはない。

柴四朗・五郎生家跡

旧若松聯隊敷地内、現在の城前市営住宅つばくろ公園の片隅に小さな石碑が残っている。柴四朗・五郎の生家があった場所である。

若松賎子の碑

会津若松市内宮町の個人の家の裏庭にある。「私の生涯は神の恵みを最後まで心にとどめたということより外に語るなにものもない」と刻まれている。